2月28日(土)になったばかり
2月11日くらいから書いたり消したりしてて、26日の夜11時頃に全部消したくなって消したりとかして、結局読んでもらえたのかどうかわからないんだけど、やっぱり思考の過程として消さなくてもよかったかなと思って下に残しました。その中に嫌いを使うしかないみたいに書いたんだけど、その後ふと思い出した事がありました。前に誰にも言えず、ずっと心の中で辛かったことをブログに書いたら、辛い思いが消えました。結構ずーんと重く苦しくなるものだったのに無くなりました。それともう一つ、みやざわりえさんが大嫌いすぎてつらくなっていたのも書いたからか消えました。いつ消えたのか覚えてないんだけど、気がついたらなくなってて、好きになったわけではないけど、どうでもよくなっていました。書いたからかなと思いました。でもただ書いただけで消えたのか、誰かに受け取ってもらえたということかなと思ったりしています。わからないけど。消えたのはすぐじゃなくてだんだんとだったかもしれないけど、いつの間にか無くなってた。ということは、もしかしたら、嫌いを言うのは私の方ではないかと思い始めました。嫌なことを言わないで抱え続けているから全部言ってしまったら心の中の抵抗感がなくなるのかもしれないと思いました。だけど、とてもくだらないことなので言いにくいので黙って抵抗感だけ持っていました。だけど、書いて消してしまおうと思って書くことにしました。私はなかやまみほさんとこいずみきょうこさんが大嫌いです。特に後者の人の勝気な感じは他人を抑えて上に行こうとするように見えて嫌いでした。良さが全く分かりませんでした。前者の人は、とてもきれいな人ってことになっていたみたいでしたが、初めて友達からそれを聞いた時、高校生くらいだったかな、えっそうかな、って理解できませんでした。友達もどっかから聞いただけだったので私と同じ感じでした。私の思っていた魅力的な顔とは違い、何かが足りずいまいちだなって思いました。直接会った人からしたら違うのかもしれませんけどね。見る角度が違うんでしょうか。ただふにふにしてるだけの人で私は嫌いでした。それにもう、女優も俳優もみんな嫌いです。彼らは私の理想でも雛形でもありません。ただ、まつだせいこちゃんだけはちょっと好きでした。彼女自身が好きというよりも、歌う世界が透明で人間界じゃないような透き通った世界なのが好きでした。テレビで見る世界よりも声だけ聞いてる世界の方がそれが強かった。それにくらべて、上に書いた2人はただの人間でした。ついでに書くとみやざわりえさんはハムで作られた人のようでした。だけど誰にも言いませんでした。悪口を書いて失礼しました。これで、残っていた抵抗感が消えるかもしれません。

2月28日(土)昼間
インターネットでいろんな人が匿名で悪口を書くのが良くないって言われるじゃないですか。だからといって、常にいいようにだけ書いているのもクラクラする気分悪さがあるじゃないですか。それは、言うべきことを言う方向があるのかもしれません。
前にどこの病院に行っても原因不明のしびれの人のこと書いたと思います。その人はしびれとしか書かなかったけど実際には腕全体が不随意にずっと震えてて親指とかもずっとピコピコ動いてる状態でした。で、今は不随意な動きはなくなってしびれはまだ完全じゃないけど、収束しつつありこのまま落ち着いていく気がします。で、結局何だったかははっきりわからないんだけど、私が思ってた違和感は、なんか鍼打ってて、どんなに下手に打っても、雑に打っても何も感じない感覚神経のないフルーツに打ってるみたいなそんな感じ。それで気になったのが、主訴と直接関係なさそうな20年前からある腰痛のことで、ずっと治らないからこの一年はずっとブロック注射を打って重労働をしてたみたいなんだけど、なんか、腰が痛いって脳に伝えようとしてるのに毎回遮断させられるって、その伝えたい気持ちはどうしたらいいの?どこか別の所に影響ないの?って自分の現状と重ねてそう思いました。でも、そもそも腰痛がなければ遮断する必要がなくなるってことで、腰痛の治療も同時にしたので今はブロック注射はずっとしていないみたいです。同時にアルコール依存症でもあったようだけど、アルコールも断っているみたいです。まだほかにも心療内科の薬を飲んでいるようで遮断要素は残っていますが。ブロック注射やアルコールが直接には関係ないように見えるけど、伝えたい情報が遮断させられるっていうのが私としては気になっていて、その元になっているものを取り除くっていう意味で、自分の抵抗感と同じかも、と思いました。
普段患者さんはあまりいないんだけど、来る人が割と私に重い課題を運んできて、自分事として考える事があります。他にも不随意に体が勝手に動いて声帯も過緊張で声が出ないような人がいて、やっぱり薬で脳の神経の伝達の遮断等で平坦を保っているみたいな感じで、深く深く考えると自分との共通点があって遮断地獄を抜け出す方法を考えています。ただ自分は抜け出せても他人にしてあげられることは限界があるとは思ってて、向き合う相性もあるし無理だと思う場合は早めに手を引こうと思っています。どうも向き合うとすぐ自分に移ってしまうみたいで、もともと種が自分の中にあるんだと思うけど、統合失調症の時も、向き合ってわざわざ同じ状態になったみたいな感じになって、自分事として対処して自分はなんとかなった。でもどうしても理解が必要なので、他人には何とかしてあげることは難しいと思う。で、言いたいことは、遮断地獄を抜け出すためには情報を遮断しなければならなくなっている原因の方を取り除かないといけないという課題に向き合っているように思っているということです。患者さんじゃなくて自分が。他人をみてふと気がつくみたいに。鍼灸でも結局は、補か瀉か(与えるか取り除くか)のどっちかで、好きか嫌いかってことだから、私の場合は、まず嫌いが先かなと思いました。陰が極まれば陽になると言って、極みで反転するんだけど、私の場合は取り除くものを取り除かないと、完全な受け取る側にはなれないって言うことかと思いました。
あとね、自己否定の強い人っているじゃないですか。それは本当は心の底では自己評価が高いから、その差がそうなっていると思います。そして、いい人でいるためとか悪口を言うという選択肢をそもそも思いついていない為に、嫌な人を否定できなかったりすると、嫌な人って自分を失って作る倒立像と関係があると思うので、そのまま自分を失う方向に自己を否定するしかなくなるんだと思います。あと、悪口を言っても仕方ない嫌な人と言うべき嫌な人がいて判断が難しいと思います。正しく言う方向を見つけるのも困難なんだと思います。

あともう一つ書きたいことあります。私は主にまつだせいこちゃんの世界にいたために、ガラの悪そうな人たちの音楽は全く聞こえていませんでした。存在も知りませんでした。そしてその頃、周囲には何か物足りない人しかいないと思ってて、どの人も大して好きになれない、好きになれそうでもどうせ近づくとがっかりすると思っていました。強そうに見せていても、本当は私より弱い、と心の中で周囲の男の人たちのことを思っていました。で、91年、就職で東京に行った年だったと思います。ラジオで、ある人の特集?をしているのを聞いていました。その人の曲の中での人気投票?みたいなのをして順番にかけながら、投票のハガキ?に対してその人がコメントしている感じでした。それを初めて聞いて、まつだせいこちゃんとは全然違いましたが、その声と音楽にも何か世界がありました。そして、その時言っていたあるコメントで、ハッとして、この人だ、って何か特別な人を見つけたと思った瞬間がありました。みんなには有名でも、私には顔も知らない人でした。その話していることそのものというより、それを言っている感覚そのものが伝わってきたって言うか、見るところが他の人と違う、それが私の思うところの強い弱いの強いっていうのと私の心のアンテナみたいなものに一致するような気がしたからです。
で、ここからなんだけど、どんな人なんだろうって、現実の中で見ようとし始めると、自分も表面に行って小さくなってしまうのか、何かうまく言えないけど、嫌な気持ちになることがあったり、何かダメでした。
これと似た感じに思っているのが、前に書いていたブログの時です。初めてブログを書き始めた時、私は匿名で何者でもなく、ただ何にも縛られず書いていたような気がします。でも多少は誰かが見るわけだからよそ行きもあったかもしれません。でも、だんだん見ている人が現実の自分を知ろうとしているようなそんな気がし始めて、そして自分の意識が現実に戻り始めると、考えることや発言することに制約が入るのかな、そこでも何か小さくなっていく感じがあったような気がします。
ここで言いたいのが、現実とは身体という像がある所、と思ってしまう癖が私にはあるんだけど、本当は現実って広がった全体像の内の1点になってしまうことだった。その中でも家の中で一人なのか、外に出て大勢の中に入るのかで現実世界の全体像という点の総数が違うので、広がったところでは誰が全体像の上なのか下なのかみたいになるというだけで、1点であることには変わりない。家の中に戻り世界を小さくし、さらに現実の中の何者でもない意識状態の所が自分の焦点、のような気がします。逆に、焦点には広がった像がないので像の情報がないのかっていうと、広がる前の全体像情報を一点で持っているってことだった。だから、意識しかないように思えるところの方が像の全体情報もあるところなので、やっぱり話し合いはここしかないのかも、と思いました。ただ、私が言うべきことを完全に手放した極みに達するまでは、次の受け取る側に方向転換できないのかもしれないと思いました。


(↓前に書いていたもの。消したり出したりしていたので、とりあえず思考の過程として書いておきます。)

私の意識がまだ浮いていて、何も抵抗感を持っていないようなふりをして、実は心の底ではまだ抵抗感を持っているみたいな、それが何かせき止めてるのかもしれないと思いました。

2月11日(水)
また会議室作りました。コメントは承認制で承認しないから公開しないし、自分にメールで連絡くることもないし、ここに入るだけにしてます。ポストみたいに。書かなくてもいいです。一応なんかのために。

2月23日(月)
向き合えない、話し合いが出来ないっていう状態には、電話しても繋がらないとか物質的な問題で繋がらないだけじゃなくて、精神的にどうしても抵抗があるってことがあると思います。で、それかなって思ってます。背中合わせを維持しているってことは、お互いに好きになれていないってことで、何か嫌が残っていることですし。

人の向きって誰と向き合うかで向きが決まってて、スポーツに打ち込むとか鳥が好きとか人以外のもので向きが変わることはなく、絶対に人と人との関係で生まれて死んでいくじゃないですか。だから向きが変わるって人と人との間の好き嫌いの力を誰にどう伝えるかで変わっていくと思います。私たちは背中合わせで好きになれていないのに好きとは言えない、その場合は伝えるのは嫌いを伝えるしかないと思います。でもそこには主語が必要で、誰が好きなのか、誰が嫌いなのかっていうことかと思います。違うかもしれないけど、書いてみる。

今私がここで書いている顔は、前を向いた本当の自分かって言うとちょっと違うかもしれません。後ろ向いてちょっとよそ行きの顔で、少し浮いてしまう感じがどうしてもします。その後ろ向きに浮いた私に対して嫌いって言えばいいんだけど、それももうちょっと技がいるって言うか。

AとBとCがいて、Aが根っこ、BとCが倒立像でした。BとCに好きだというと、Aがくるっと背中を向けました。次にAを振り向かせないといけないんだけど、向き合っている人に好きとはいえるけど、向き合っていない背中合わせの人には好きとはいえません。言ってみたとしても背中合わせは嫌いの向きなので嘘だとわかるので受け取ってもらえません。だからといって本人に嫌いだというとそのままを維持するだけだし。BとCに嫌いだからくるっと反対向いてとも言えません。BとCの本体はAの背中側なので、Aの背中に向かってBとCが嫌いだと伝えると、そのAの背中がくるっと反対向くとか、そういう技がいると思います。このAの裏と表の意識が、2つに分裂して姉妹の意識になっているんじゃないかと思います。これはさっと書いてしまった例なので、このとおりじゃないかもしれないけど、なにか好きと嫌いは好きしか言ってはいけないんじゃなくて、力の使い方だと思います。そして技って言っても本当のことじゃないと通用しないので、好きと嫌いが混線してわかりにくくなっているところを本当の気持ちが通じるように、好きと嫌いを使い分けるんだと思います。本当の状態を言わないといけないので背中合わせは嫌いしか受け取れないんだと思います。だけど主語は変更できる。今までは嫌いっていうのは悪口で言ってはいけない悪いことだと思い過ぎた。あと、過去は自由に変更できなければおかしいと思いました。好きと思っても嫌いになるし、間違いと思っていたことも正しくなるし。過去を変更できないように固定していた思い込みがあったかもしれません。変化したら過去の方を否定してひっくり返さないと今ががんじがらめになってしまうのにね。

ここできれいごとをいっぱい書いて好きこそ素晴らしいことみたいに書いててすみませんでした。向きを表す信号だということがわかっていませんでした。でも、思いついて書いてみたけど、本当に嫌いで解決するのか考えすぎるとわからなくなってきたんだけど、とりあえず書いておきます。

後ろ向いて少し浮いてしまう時は、斥力になってしまうから嫌いを使わないといけない。前を向いている時は誰かに会うとその分浮いてしまうけど、一人の時はたぶん本当の自分でいられる。その前向きの一人って言う状態で話し合えるようにはなりたいと思うけどまだわからない。







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